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「愛を読むひと」原作を再読する前に・その1、
「愛を読むひと」原作を再読する前に・その2 「愛を読むひと」と「朗読者」を比べて・その1の続きです。 早速、ここから<ネタバレ注意!>です。 原作の内容に触れながらネタバレしまくりなので、どうぞご注意ください。 さんざん、引っ張ってきてしまいましたが、この物語で私が一番疑問に思ったこと= "なぜ、マイケルはハンナに返事を書かなかったか?"にやっとこさとりかかりましょう^^ まあ、答えは簡単なんですけどね。 "マイケルは、返事を書く気が無かっただけ"。 って、それで終わりではあんまりなので、少し物語の解釈みたいなことをしてみますね^^ そもそも、マイケルは、どうしてハンナのために本を朗読してあげようとしたのか、 その理由が解りますか? 映画だと、本を読み始めることになったきっかけや理由は特に描かれてませんでしたよね。 中には、マイケルが裁判の時のハンナを不利な状況から救ってやれなかったことをずっと引きずっていて、その罪ほろぼしに本を読み始めた、と解釈してた方もいましたけど。 映画に表面上描かれたことから察するとしたら、そんな解釈もありなんでしょうね。 でも、原作の「朗読者」だと、そこんとこは、ずえ~んずえ~ん、まるで違います^^; 確かに、裁判の時、マイケルはハンナの犯した罪を知ってショックを受け、ハンナが文盲(非識字者というべきなんですが)だという秘密を曝してでもハンナを救うべきか、それとも、重い刑を科されても秘密を守ろうとしているハンナの気持ちを尊重するべきか、悩んで苦しみました。それは映画も原作も同じ。 でも、原作だと、マイケルはこんなことも考えてたんですよ。 ハンナのために裁判長のところに出かけていく、という場面です。 「ぼくは裁判長のところに出かけていった。ハンナのところへは行けなかった。しかし、何もしないでいることにも耐えられなかった。どうしてハンナと話すことができなかったんだろう。彼女はぼくを捨てたのだし、ぼくをだましていて、ぼくが見ていたような、空想していたような人間ではなかった。それにぼくは何だったんだろう?彼女に利用された小さな朗読者、彼女を楽しませた小さな愛人?」 そうして、結局、裁判長にはハンナについて何も言うこともできないまま、帰る道すがらでは… 「ぼくはすべてを目に留めながら、無感覚のままだった。ぼくはもう、侮辱されたとか、ハンナに捨てられたとか、だまされた、利用された、などは思ってなかった。ぼくはもう彼女に関わる必要も感じなかった。」 「感覚が麻痺したような状態でこの公判における恐ろしい事実を追ってきたが、その状態が、過去何週間かの感情と思考の中で落ち着いていくのを感じた。それを喜んだというのは言い過ぎだろう。でも、それでよかったんだ、と感じた。そうすることで、ぼくはまた日常生活に戻っていける。これからも生きていける、と思った。」 おやおや、彼女はぼくを捨てた、だましていた、利用された、とか。 マイケルくん、けっこうグチグチ言ってますよね^^; ぼくは彼女に関わる必要も感じなくなった、ぼくはまた日常生活に戻っていける、って割り切ろうともしてるし。 原作のマイケルは、けっこう現実的だし、綺麗ごとを言ったりしてないのがいいんです^^ もちろん、原作のマイケルも、女性と付き合う度にハンナと比べてしまって結局別れることを繰り返しているし、ホロコーストにおける親の世代の責任について考えたり、ハンナや裁判のことを引きずって生きてはいるんですが。 それでも、映画のマイケルのように、裁判の後の人生をず~っと暗く鬱々と過ごしたわけじゃないし、誰とも(娘とさえ)打ち解けられないほど傷ついたまま過去を引きずって生きたわけでもない。 評論家のS・Kさんが、『原作、映画が感動的なのは、マイケルが、かつて愛したハンナの罪を共に背負うとする決意にある』って、キネ旬に書いてましたけど、映画はそんな風に感動的な話なのかもしれないけど、少なくとも、原作のマイケルはそうじゃないと思う。 要するに原作より映画を解りやすい感動話にしたかったのか、映画のマイケルは、まるでハンナの罪に殉じたような人生を送った印象で、原作のマイケルに比べてずいぶん同情的に描かれているんですよね。 これが、映画のマイケルがつまらないと思う、最大の理由。 ちなみに、原作のハンナは映画のケイト・ウィンスレットが演じたハンナより女王様キャラだ、と前の感想で書きましたが、裁判でのハンナも、原作と映画では印象が違います。 原作のハンナは、始終高慢な態度のままでした(それは彼女が必死に闘っていたからなんですが)。それに比べて、映画のハンナは、自分の思ったことをそのままに言う頑な態度ではありましたが、どこかひたむきにも思えて、哀れな印象でした。一緒に裁かれてたかつての同僚たちが、いかにも意地悪そうで苦笑してしまいましたが、それもハンナを同情的に描くためなんでしょう。 判決が下る時に、ハンナはあえて、親衛隊の制服を連想させるような黒のスーツを身につけて傍聴人からの罵倒を浴びるのですが、原作のハンナのように高慢で毅然とした態度を貫いたからこそ、この黒いス-ツが生きてくると思うんですよ。 話が回り道にだいぶそれましたが、マイケルは、どうしてハンナに本を朗読してあげようとしたか、というその理由なんですが。 原作のマイケルが本の朗読を始めたのは、"たまたま"だったんです! 離婚後のマイケルは、学生時代に読んだ「オデュッセイア」の本を再び読み始めた。しかし、読んでいるうちについ寝てしまうので、声に出して読むことにした。声に出して読んだことで様々な思いにかられ、ハンナのために読むことを思い立った。 もうね、な~んだ、と思っちゃうような事情で朗読することになったんですよ^^; 朗読が罪ほろぼしとか、ハンナの罪を共に背負うとか、そんな意識は原作のマイケルには全然無かったんですよね。 ここで、原作における年月の経過を解りやすくまとめてみましょうか。 ●出逢った時 マイケル=15歳 ハンナ=36歳 ●ハンナの裁判 マイケル=22歳 ハンナ=43歳 ●朗読のカセットを送り始めた時 マイケル=30歳 ハンナ=51歳 ●初めてハンナから手紙がきた時 マイケル=34歳 ハンナ=55歳 ●ハンナ釈放前に死亡 マイケル=40歳 ハンナ=61歳 つまり、裁判からマイケルが朗読のカセットを送るようになるまでは8年が過ぎ、カセットを送ってから4年でハンナは初めての自筆の手紙を送り、それから6年間、マイケルに手紙を出し続けるわけです。10年間も朗読のカセットを送り続けたマイケルも大変だったけど、6年間という長い年月の間、ハンナの手紙に返事を書いてやろうとしなかったんですね~ 前の感想で、"なぜマイケルは、ハンナの手紙に返事を書かなかったのか"ということは、"なぜ読み書きのできるようになったハンナの喜びを分かち合おうとしなかったのか"という疑問でもあり、"なぜハンナは死んでしまったのか"という疑問にもつながることだ、と書いていますが。 意外なことに、原作のマイケルは、手紙に返事を書こうとはしなかったけど、ハンナが読み書きができるようになったことをちゃんと喜んでいるのです。 原作のそのくだりは、こんなです。 ぼくはハンナの手紙を読んだ。そして、歓喜に満たされた。 「彼女は書ける。書けるようになったんだ!」 それからぼくはハンナの筆跡を見、書くことが彼女にとってどれほどの力と戦いを必要とすることだったかを理解した。彼女を誇らしく思った。と同時に、その努力が遅すぎたことや、彼女の人生が失われてしまったことを思って悲しくもあった。 ね、ちゃんと原作のマイケルは喜んでるでしょう? じゃあ、映画のマイケルが、なぜハンナが読み書きのできることを喜ばなかったのか、それは全然全く解りません。 映画の製作者に、いったいどうして?なぜ?WHY?と訊ねてみたいくらい。 スクリーンのマイケルは、手紙を見た瞬間に顔が輝くようなこともなかったし、全くこれっぽっちも喜んでいるようには見えなかったですよね… 文盲であることを隠すためなら、たとえ重い判決でも進んで受けたハンナにとって、文字が読めないということが人生最大の苦しみだったことはマイケルも知っているだろうに、それでも映画のマイケルはハンナが文字を書けるようになったことを喜ぶどころか表情ひとつ変えようとしない。 喜んでやれよ~! 思わず、スクリーンのマイケルに言ってやりたくなったくらい、私はけっこう腹立たしかったです。 だって、ハンナが、アルファベットの一文字一文字を一生懸命つなげた最初の手紙って、 こうなんですよ。 「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。 ハンナ」 ちょっと、泣ける手紙じゃないですか。 こんな短い手紙でも、ハンナがものすごく努力してことは想像がつくでしょうに、これに返事しないなんて「マイケル、あんたは鬼か!」ってつい思っちゃうんですけど^^; 返事を書かなかったことについては、原作ではどう書いているかというと、あっさりこれだけ。 ぼくからはハンナには何も書かなかった。 私は、ひょっとしたらインテリのマイケルは、ハンナの手紙があまりにも稚拙だったゆえに返事を書かないのか、とも思ったんです。 でも、原作のマイケルは、ハンナの手紙のおかげで季節の移り変わりに気付くこともあったし、文学についての彼女のコメントは驚くほど的確なものだった、というから、ハンナの手紙は十分に返事を書くに値するものだった。 しかも、最初はたどたどしくてやたら筆圧がかかっていて、力まかせに書いた子供の字のようだった筆跡も、次第に上手くなり、最後のほうでは流れるような筆跡にこそならなかったけど、「ある種の厳しい美しさのある筆跡」になったというんですから。 それでも、マイケルは、手紙を一通残らず取っておくことはしても、返事は書こうともしない。 映画を観たとき(原作を再読する前に)、私が考えたことは、マイケルはリアルなハンナを相手にしたくないのでは、ということでした。 マイケルが朗読してる時の脳内にあるハンナは36歳のままであって、決して60歳近いハンナに読んでやっていたわけではないでしょう。 現実の生身の人間であるハンナと、人間対人間の付き合いをすることなど、考えられないことだったのかな、と推察してみたのです。 原作には結局、返事を書かない理由は描かれていない(まるで返事を書かないのは当然のことと言わんばかりに)のですが、ハンナが釈放されると知ったときのマイケルの気持ちは、こんな風に描かれています。 あの当時、ハンナがいつの日か釈放されるとは考えたこともなかった。挨拶とカセットを交換するのがぼくにとっての通常の、親しみ深い状態であり、ハンナもそうした緩やかな形で関わっている限り近くて遠い存在で、ぼくはずっとその状態を続けてもいいと思っていた。 そして、訪ねてきてください、という刑務所の所長からの手紙を受け取りながら、マイケルは会いたくなくて訪問を先延ばしにするのですが、その理由というのがすごくよく解るなあと思うものでした。 ハンナとはまさに自由な関係で、お互い近くて遠い存在だったからこそ、ぼくは彼女を訪問したくなかった。実際に距離を置いた状態でのみ、彼女と通じていられるのだという気がしていた。挨拶とカセットだけでできている小さくて軽くて安全な世界はあまりにも人工的でもろいものなので、実際の近さには耐えられないのではないかと不安だった。 ようやく、釈放の直前にハンナに会いにいったマイケルは、自分のこんな思いも吐露しています。 ぼくは彼女が字を覚え、手紙を書いてくれたことで、感心したし、喜びもしたのだ。しかし、ハンナが読み書きを覚えるために払った犠牲に比べたら、ぼくの感心や喜びなど取るに足らないものだ、と感じた。彼女に返事を書いたり、訪問したり、一緒に話をすることさえしないぼくの喜びなど、なんてちっぽけなものなのだろう。ぼくは彼女を小さな隙間に入れてやっただけだった。その隙間はぼくにとっては重要だったし、ぼくに何かを与え、ぼくもそのために行動はしたが、隙間は隙間であって、人生の中のちゃんとした場所ではなかった。しかし、彼女にちゃんとした場所を与える必要があったんだろうか? 「彼女に返事を書いたり、訪問したり、一緒に話をすることさえしないぼく…」やっと自分の冷たい仕打ちに気がついたか、という感じですが、それにしても、「ぼくは彼女を隙間に入れてやっただけで、ちゃんとした場所ではなかった」とは、なんてまあ残酷な言葉で表現してるんでしょう。 「しかし、彼女にちゃんとした場所を与える必要があったんだろうか?」というマイケルの正直な気持ちは、面会を果たしたハンナに悟られてしまいます。 ぼくは彼女の顔に浮んだ期待と、ぼくを認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。近づいていくと、彼女はぼくの顔を撫でるようにみつめた。彼女の目は、求め、尋ね、落ちつかないまま傷ついたようにこちらを見、顔からは生気が消えていった。ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたようなほほえみを浮かべた「大きくなったわね、坊や」 「彼女の目は、求め、尋ね」というのが、何とも痛々しいというか、マイケルに会えるというハンナの期待が喜びに変わって輝いて、またみるみるうちに輝きを失くしたかと思うと、胸の痛くなるような場面なんですよね… さらに酷いというか、それはマイケルにしたら不可抗力で仕方のないことなのですが、ハンナのそばに寄ったマイケルは、ハンナに老人特有の匂いを嗅いでしまう。 かつて愛したひとから、老臭を嗅いでしまうなんて、マイケルにしたらもうほんと寒々しい気持ちになってしまったことと思いますが、とりあえず気持ちを繕って、出所するのを楽しみにしてるよ、とハンナには伝えて刑務所を後にしてるんですけどね… この時のハンナは61歳。年老いたとはいえ、まだ老臭を漂わせるような年齢ではないのですが、後にハンナが亡くなった後で、刑務所の所長がこう説明しています。 ハンナは刑務所の他の受刑者とは距離を置いていたが、権威があり、人望もあった。徹底した清潔好きで、いつもきちんとしていた。ところが、数年前に突然、すべてを投げ出したかのように、がつがつと食べるようになって太ってしまい、身体も洗わないので匂うようになった、と。 数年前に、いったいハンナに何が起こったのか? 所長は、孤独の庵に入ってしまったために、自分の外見などどうでもよくなったのだろう、とも説明していました。 では、どうして、ハンナは孤独の庵にこもってしまったのか。 想像するに、文字が読み書きできるようになった時のハンナの高揚はそれは大変なものだったろうと思います。やがて、ハンナは文学だけでなく、ホロコーストに関する書籍を読みあさるようになったといいます。 自分の加担したホロコーストとは何だったのか、自分の過去はいったいどうだったのか知ろうとしたのでしょう。そうして、ホロコーストついて読み尽くした頃には、文字を読めるようになった時の高揚も失せていたでしょう。どんなに書籍を読んでも、自分がしたことも、自分の過去も、結局理解できるのは自分だけだと知って、ハンナは絶望に似た虚無感を感じたかもしれない。文盲であったがゆえに、常にその生涯を自分の尊厳を守るための闘いに明け暮れていたハンナは、その闘いから解放された時に、尊厳を守ることも、ぷっつりとやめてしまったのかもしれない。 「わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなったかということも、誰も知らないんだという気がしていたの。誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。ただ死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに」 前の記事でも引用してますが、面会に行ったマイケルにハンナがこう語っています。 すでに、自殺する何年か前から、彼女は生きることをやめてしまっていたのかもしれない。 でも、思うんですよ、もし、マイケルが手紙を書いていたら。 ほんのひと言のメッセージでも添えて、朗読のカセットを送っていたら。 もし、面会のときに、マイケルが愛情のある態度で接することができていたら。 そうしたら、ハンナは、また生きることを始めようとしたかもしれないのに。 そりゃ、マイケルのしたことも、しなかったことも、 仕方の無いことで責められないとも思うんですけどね。 仕方が無いこととはいえ、マイケルはかつて愛したハンナを何度となく裏切ってしまった。 原作は、そういうお話です。 原作のように、マイケルがハンナに対してある意味残酷であったことを描いたほうが、 物語の深みのようなものがあったと思うんですよ。 これは、好みの問題かもしれませんけど。 映画のマイケルは、ハンナのために献身的に朗読をしながらも何を考えているのかも解らないままでした。ハンナの手紙に返事を書かなかったことや、ハンナに会いに行かなかったことの説明も何も無いまま。説明しないことで、行間を読みとってくださいと映画を観るひとの想像に任せようとしたのかもしれませんが。 映画は、少年の日の愛を大人になっても貫き通した男の物語、といった印象なんですよね。 そして、それが映画の気に入らないところでもあるんですが^^; 映画では、もうひとつ、原作のあるシーンがカットされていました。 それは、少年の日、マイケルが15歳で、ハンナが何も言わずにマイケルの前から去っていってしまう前のこと。いつものようにマイケルはハンナと愛し合うのですが、その日に限ってハンナは本を読まなくていいと言い、「友だちの所に行きなさい」とすすめます。そして、マイケルが友人たちとプールで泳いでいたその時、プールの向こうにハンナが立ってマイケルをみつめているのでした。 このプールでの出来事のあとハンナはいなくなってしまったので、マイケルは、友人たちに怪しまれてでもプールを出て駆け寄らなかった自分を強く責めたのですが… これも仕方の無いこととはいえ、少年の日にもマイケルはハンナを裏切ってしまってました。 もしかしたら、「さようなら、坊や」とつぶやいていたのかしらと思うのですが、プールの向こうにぽつんと立つハンナというのが、なんとなく切ない映像として自分の中に浮ぶのです。 そして、原作には、こんなエピソードもあります。 ハンナが自殺してしまった後、マイケルがハンナの独房を訪ねてみると、その壁には、絵や詩の書かれた切り抜きに混ざって、青年時代のマイケルが載った新聞記事が留められていました。 マイケルの前から消えたハンナは、遠く離れた街で、ギムナジウムの卒業式で賞を贈られたマイケルのことを伝え聞いて、その新聞記事を手に入れ、何十年も大切に飾っていたのでした。 そのちっぽけな新聞の切り抜き記事が語っていますよね。 ハンナはマイケルを思い続けていた、ということを。 …すっかり映画レビューではなくて、原作語りの文章になってしまいましたが、「愛を読むひと」についての長い長い雑感はこれでおしまいです。 最後まで読んでくださった稀少な方に、心からお礼を申しあげます。 そうそう、映画は原作に比べるとよく描けてませんでしたが、 それでも映画化されてよかったと思うことがひとつあります。 原作を再読したときに、ケイト・ウィンスレットを思い描きながら、ハンナについて読むことができましたから^^ 評価の星は、、すべてケイトに捧げたものです^^ 「愛を読むひと」公式HP allcinema「愛を読むひと」 my評価 :★★★ (★五つで満点、☆は★の半分)
by do-little
| 2009-07-05 20:22
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