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レンタルDVDで観た「エレジー」。
ペネロペ・クルス目当てで観てみました。 はっきり言っちゃって単なるメロドラマに終わりそうだったこの映画を、 きらりと光る映画にしてるのは、ペネロペ・クルスがとにかく素敵だから^^ だから、ペネロペはちょっと苦手というひとには、ど~でもいい映画かもしれない。 あ、でもペネロペはこの映画で知的な(!)大学生を演じてるんですけど、 これがちゃんはまってなりきってる。 今までのペネロペとまた違うペネロペが見れるので、彼女が苦手と思ってるひとも へえ~こんな役も演じるのねって見方が変わるかもしれないですよ^^ ここから<ネタバレ注意!>です。 そう、とにかく、ペネロペが前髪を切り揃えて清楚な女子大生を演じてるのが新鮮でした。 前に観た「ボルベール~帰郷」の彼女が、 ソフィア・ローレンばりの肝っ玉かあさんだったのとは大違い。 最新作の「それでも恋するバルセロナ」では、 情熱的というかやたらぶっとんだ女性を演じてるみたいだし… 「エレジー」のペネロペ演じるコンスエラは、知的で、清らかで、 ちょっとクサイ表現ですが、一粒の真珠のような、真っ白な百合の花ような存在でしたよ。 卒業を祝うパーティのシーンで、真っ白なドレスで黒髪に真っ白な花を飾っていた姿なんて、 もう、うっとりものでしたし。 ベン・キングズレー演じる教授と海辺を歩くシーンは なんだかアヌーク・エーメみたいな洗練された大人の雰囲気でしたね~^^ モノクロのフィルムで捉えられた彼女の写真がまた素敵だったこと。 そして、教授が最初にコンスエラをモノにしようとした(言い方悪いけど)時に、 「君は、ゴヤのマハみたいだ」って言うんですよね。 マハとは、ゴヤの描いた「着衣のマハ」「裸のマハ」のマハ。 それでね~、ストーリーの紹介とかまるで省いちゃってる上に ネタバレなこともをはっきり書いちゃいますけど コンスエラと教授が別れてから月日が流れた後、訪ねてきたコンスエラは 乳ガンの手術を控えた身だったのですね。 そして、手術の前の胸を写真に撮ってくれと教授に懇願する。 ペネロペは惜しみなく綺麗で豊満なおっぱいを披露してましたけど、 その時に取っていたポーズが、あの「裸のマハ」のポーズだったんですよね… まあでも、コンスエラを乳ガンにしちゃったことで、ストーリーが安っぽくなってしまったと思うので、せっかくの「裸のマハ」のポーズもそれほど"わ~"という感じではありませんでしたけど。 自分の老いをみつめる教授とコンスエラが、 別の形で再び巡り合うストーリーだったらよかったのにな… 教授の親友役を演じて老いた姿を見せてたのは、あのデニス・ホッパーでした。 そして、教授の中年のセフレ役が、パトリシア・クラークソン! 彼女は「エイプリルの七面鳥」の母親役が最高によかったのですが、 「ラースとその彼女」でも女医さんの役を好演してましたっけ。 監督が、「死ぬ前にしたい10のこと」 のイザベル・コイシェ。 ベン・キングズレーの演技ももちろんよかったんですが、 私にとっては、ただひたすらにペネロペを鑑賞する映画でした^^ 「エレジー」公式サイト allcinema「エレジー」 my評価 :★★★ (★五つで満点、☆は★の半分) ▲
by do-little
| 2009-08-23 06:32
| ■エレジー
「愛を読むひと」原作を再読する前に・その1、
「愛を読むひと」原作を再読する前に・その2 「愛を読むひと」と「朗読者」を比べて・その1の続きです。 早速、ここから<ネタバレ注意!>です。 原作の内容に触れながらネタバレしまくりなので、どうぞご注意ください。 さんざん、引っ張ってきてしまいましたが、この物語で私が一番疑問に思ったこと= "なぜ、マイケルはハンナに返事を書かなかったか?"にやっとこさとりかかりましょう^^ まあ、答えは簡単なんですけどね。 "マイケルは、返事を書く気が無かっただけ"。 って、それで終わりではあんまりなので、少し物語の解釈みたいなことをしてみますね^^ そもそも、マイケルは、どうしてハンナのために本を朗読してあげようとしたのか、 その理由が解りますか? 映画だと、本を読み始めることになったきっかけや理由は特に描かれてませんでしたよね。 中には、マイケルが裁判の時のハンナを不利な状況から救ってやれなかったことをずっと引きずっていて、その罪ほろぼしに本を読み始めた、と解釈してた方もいましたけど。 映画に表面上描かれたことから察するとしたら、そんな解釈もありなんでしょうね。 でも、原作の「朗読者」だと、そこんとこは、ずえ~んずえ~ん、まるで違います^^; 確かに、裁判の時、マイケルはハンナの犯した罪を知ってショックを受け、ハンナが文盲(非識字者というべきなんですが)だという秘密を曝してでもハンナを救うべきか、それとも、重い刑を科されても秘密を守ろうとしているハンナの気持ちを尊重するべきか、悩んで苦しみました。それは映画も原作も同じ。 でも、原作だと、マイケルはこんなことも考えてたんですよ。 ハンナのために裁判長のところに出かけていく、という場面です。 「ぼくは裁判長のところに出かけていった。ハンナのところへは行けなかった。しかし、何もしないでいることにも耐えられなかった。どうしてハンナと話すことができなかったんだろう。彼女はぼくを捨てたのだし、ぼくをだましていて、ぼくが見ていたような、空想していたような人間ではなかった。それにぼくは何だったんだろう?彼女に利用された小さな朗読者、彼女を楽しませた小さな愛人?」 そうして、結局、裁判長にはハンナについて何も言うこともできないまま、帰る道すがらでは… 「ぼくはすべてを目に留めながら、無感覚のままだった。ぼくはもう、侮辱されたとか、ハンナに捨てられたとか、だまされた、利用された、などは思ってなかった。ぼくはもう彼女に関わる必要も感じなかった。」 「感覚が麻痺したような状態でこの公判における恐ろしい事実を追ってきたが、その状態が、過去何週間かの感情と思考の中で落ち着いていくのを感じた。それを喜んだというのは言い過ぎだろう。でも、それでよかったんだ、と感じた。そうすることで、ぼくはまた日常生活に戻っていける。これからも生きていける、と思った。」 おやおや、彼女はぼくを捨てた、だましていた、利用された、とか。 マイケルくん、けっこうグチグチ言ってますよね^^; ぼくは彼女に関わる必要も感じなくなった、ぼくはまた日常生活に戻っていける、って割り切ろうともしてるし。 原作のマイケルは、けっこう現実的だし、綺麗ごとを言ったりしてないのがいいんです^^ もちろん、原作のマイケルも、女性と付き合う度にハンナと比べてしまって結局別れることを繰り返しているし、ホロコーストにおける親の世代の責任について考えたり、ハンナや裁判のことを引きずって生きてはいるんですが。 それでも、映画のマイケルのように、裁判の後の人生をず~っと暗く鬱々と過ごしたわけじゃないし、誰とも(娘とさえ)打ち解けられないほど傷ついたまま過去を引きずって生きたわけでもない。 評論家のS・Kさんが、『原作、映画が感動的なのは、マイケルが、かつて愛したハンナの罪を共に背負うとする決意にある』って、キネ旬に書いてましたけど、映画はそんな風に感動的な話なのかもしれないけど、少なくとも、原作のマイケルはそうじゃないと思う。 要するに原作より映画を解りやすい感動話にしたかったのか、映画のマイケルは、まるでハンナの罪に殉じたような人生を送った印象で、原作のマイケルに比べてずいぶん同情的に描かれているんですよね。 これが、映画のマイケルがつまらないと思う、最大の理由。 ちなみに、原作のハンナは映画のケイト・ウィンスレットが演じたハンナより女王様キャラだ、と前の感想で書きましたが、裁判でのハンナも、原作と映画では印象が違います。 原作のハンナは、始終高慢な態度のままでした(それは彼女が必死に闘っていたからなんですが)。それに比べて、映画のハンナは、自分の思ったことをそのままに言う頑な態度ではありましたが、どこかひたむきにも思えて、哀れな印象でした。一緒に裁かれてたかつての同僚たちが、いかにも意地悪そうで苦笑してしまいましたが、それもハンナを同情的に描くためなんでしょう。 判決が下る時に、ハンナはあえて、親衛隊の制服を連想させるような黒のスーツを身につけて傍聴人からの罵倒を浴びるのですが、原作のハンナのように高慢で毅然とした態度を貫いたからこそ、この黒いス-ツが生きてくると思うんですよ。 話が回り道にだいぶそれましたが、マイケルは、どうしてハンナに本を朗読してあげようとしたか、というその理由なんですが。 原作のマイケルが本の朗読を始めたのは、"たまたま"だったんです! 離婚後のマイケルは、学生時代に読んだ「オデュッセイア」の本を再び読み始めた。しかし、読んでいるうちについ寝てしまうので、声に出して読むことにした。声に出して読んだことで様々な思いにかられ、ハンナのために読むことを思い立った。 もうね、な~んだ、と思っちゃうような事情で朗読することになったんですよ^^; 朗読が罪ほろぼしとか、ハンナの罪を共に背負うとか、そんな意識は原作のマイケルには全然無かったんですよね。 ここで、原作における年月の経過を解りやすくまとめてみましょうか。 ●出逢った時 マイケル=15歳 ハンナ=36歳 ●ハンナの裁判 マイケル=22歳 ハンナ=43歳 ●朗読のカセットを送り始めた時 マイケル=30歳 ハンナ=51歳 ●初めてハンナから手紙がきた時 マイケル=34歳 ハンナ=55歳 ●ハンナ釈放前に死亡 マイケル=40歳 ハンナ=61歳 つまり、裁判からマイケルが朗読のカセットを送るようになるまでは8年が過ぎ、カセットを送ってから4年でハンナは初めての自筆の手紙を送り、それから6年間、マイケルに手紙を出し続けるわけです。10年間も朗読のカセットを送り続けたマイケルも大変だったけど、6年間という長い年月の間、ハンナの手紙に返事を書いてやろうとしなかったんですね~ 前の感想で、"なぜマイケルは、ハンナの手紙に返事を書かなかったのか"ということは、"なぜ読み書きのできるようになったハンナの喜びを分かち合おうとしなかったのか"という疑問でもあり、"なぜハンナは死んでしまったのか"という疑問にもつながることだ、と書いていますが。 意外なことに、原作のマイケルは、手紙に返事を書こうとはしなかったけど、ハンナが読み書きができるようになったことをちゃんと喜んでいるのです。 原作のそのくだりは、こんなです。 ぼくはハンナの手紙を読んだ。そして、歓喜に満たされた。 「彼女は書ける。書けるようになったんだ!」 それからぼくはハンナの筆跡を見、書くことが彼女にとってどれほどの力と戦いを必要とすることだったかを理解した。彼女を誇らしく思った。と同時に、その努力が遅すぎたことや、彼女の人生が失われてしまったことを思って悲しくもあった。 ね、ちゃんと原作のマイケルは喜んでるでしょう? じゃあ、映画のマイケルが、なぜハンナが読み書きのできることを喜ばなかったのか、それは全然全く解りません。 映画の製作者に、いったいどうして?なぜ?WHY?と訊ねてみたいくらい。 スクリーンのマイケルは、手紙を見た瞬間に顔が輝くようなこともなかったし、全くこれっぽっちも喜んでいるようには見えなかったですよね… 文盲であることを隠すためなら、たとえ重い判決でも進んで受けたハンナにとって、文字が読めないということが人生最大の苦しみだったことはマイケルも知っているだろうに、それでも映画のマイケルはハンナが文字を書けるようになったことを喜ぶどころか表情ひとつ変えようとしない。 喜んでやれよ~! 思わず、スクリーンのマイケルに言ってやりたくなったくらい、私はけっこう腹立たしかったです。 だって、ハンナが、アルファベットの一文字一文字を一生懸命つなげた最初の手紙って、 こうなんですよ。 「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。 ハンナ」 ちょっと、泣ける手紙じゃないですか。 こんな短い手紙でも、ハンナがものすごく努力してことは想像がつくでしょうに、これに返事しないなんて「マイケル、あんたは鬼か!」ってつい思っちゃうんですけど^^; 返事を書かなかったことについては、原作ではどう書いているかというと、あっさりこれだけ。 ぼくからはハンナには何も書かなかった。 私は、ひょっとしたらインテリのマイケルは、ハンナの手紙があまりにも稚拙だったゆえに返事を書かないのか、とも思ったんです。 でも、原作のマイケルは、ハンナの手紙のおかげで季節の移り変わりに気付くこともあったし、文学についての彼女のコメントは驚くほど的確なものだった、というから、ハンナの手紙は十分に返事を書くに値するものだった。 しかも、最初はたどたどしくてやたら筆圧がかかっていて、力まかせに書いた子供の字のようだった筆跡も、次第に上手くなり、最後のほうでは流れるような筆跡にこそならなかったけど、「ある種の厳しい美しさのある筆跡」になったというんですから。 それでも、マイケルは、手紙を一通残らず取っておくことはしても、返事は書こうともしない。 映画を観たとき(原作を再読する前に)、私が考えたことは、マイケルはリアルなハンナを相手にしたくないのでは、ということでした。 マイケルが朗読してる時の脳内にあるハンナは36歳のままであって、決して60歳近いハンナに読んでやっていたわけではないでしょう。 現実の生身の人間であるハンナと、人間対人間の付き合いをすることなど、考えられないことだったのかな、と推察してみたのです。 原作には結局、返事を書かない理由は描かれていない(まるで返事を書かないのは当然のことと言わんばかりに)のですが、ハンナが釈放されると知ったときのマイケルの気持ちは、こんな風に描かれています。 あの当時、ハンナがいつの日か釈放されるとは考えたこともなかった。挨拶とカセットを交換するのがぼくにとっての通常の、親しみ深い状態であり、ハンナもそうした緩やかな形で関わっている限り近くて遠い存在で、ぼくはずっとその状態を続けてもいいと思っていた。 そして、訪ねてきてください、という刑務所の所長からの手紙を受け取りながら、マイケルは会いたくなくて訪問を先延ばしにするのですが、その理由というのがすごくよく解るなあと思うものでした。 ハンナとはまさに自由な関係で、お互い近くて遠い存在だったからこそ、ぼくは彼女を訪問したくなかった。実際に距離を置いた状態でのみ、彼女と通じていられるのだという気がしていた。挨拶とカセットだけでできている小さくて軽くて安全な世界はあまりにも人工的でもろいものなので、実際の近さには耐えられないのではないかと不安だった。 ようやく、釈放の直前にハンナに会いにいったマイケルは、自分のこんな思いも吐露しています。 ぼくは彼女が字を覚え、手紙を書いてくれたことで、感心したし、喜びもしたのだ。しかし、ハンナが読み書きを覚えるために払った犠牲に比べたら、ぼくの感心や喜びなど取るに足らないものだ、と感じた。彼女に返事を書いたり、訪問したり、一緒に話をすることさえしないぼくの喜びなど、なんてちっぽけなものなのだろう。ぼくは彼女を小さな隙間に入れてやっただけだった。その隙間はぼくにとっては重要だったし、ぼくに何かを与え、ぼくもそのために行動はしたが、隙間は隙間であって、人生の中のちゃんとした場所ではなかった。しかし、彼女にちゃんとした場所を与える必要があったんだろうか? 「彼女に返事を書いたり、訪問したり、一緒に話をすることさえしないぼく…」やっと自分の冷たい仕打ちに気がついたか、という感じですが、それにしても、「ぼくは彼女を隙間に入れてやっただけで、ちゃんとした場所ではなかった」とは、なんてまあ残酷な言葉で表現してるんでしょう。 「しかし、彼女にちゃんとした場所を与える必要があったんだろうか?」というマイケルの正直な気持ちは、面会を果たしたハンナに悟られてしまいます。 ぼくは彼女の顔に浮んだ期待と、ぼくを認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。近づいていくと、彼女はぼくの顔を撫でるようにみつめた。彼女の目は、求め、尋ね、落ちつかないまま傷ついたようにこちらを見、顔からは生気が消えていった。ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたようなほほえみを浮かべた「大きくなったわね、坊や」 「彼女の目は、求め、尋ね」というのが、何とも痛々しいというか、マイケルに会えるというハンナの期待が喜びに変わって輝いて、またみるみるうちに輝きを失くしたかと思うと、胸の痛くなるような場面なんですよね… さらに酷いというか、それはマイケルにしたら不可抗力で仕方のないことなのですが、ハンナのそばに寄ったマイケルは、ハンナに老人特有の匂いを嗅いでしまう。 かつて愛したひとから、老臭を嗅いでしまうなんて、マイケルにしたらもうほんと寒々しい気持ちになってしまったことと思いますが、とりあえず気持ちを繕って、出所するのを楽しみにしてるよ、とハンナには伝えて刑務所を後にしてるんですけどね… この時のハンナは61歳。年老いたとはいえ、まだ老臭を漂わせるような年齢ではないのですが、後にハンナが亡くなった後で、刑務所の所長がこう説明しています。 ハンナは刑務所の他の受刑者とは距離を置いていたが、権威があり、人望もあった。徹底した清潔好きで、いつもきちんとしていた。ところが、数年前に突然、すべてを投げ出したかのように、がつがつと食べるようになって太ってしまい、身体も洗わないので匂うようになった、と。 数年前に、いったいハンナに何が起こったのか? 所長は、孤独の庵に入ってしまったために、自分の外見などどうでもよくなったのだろう、とも説明していました。 では、どうして、ハンナは孤独の庵にこもってしまったのか。 想像するに、文字が読み書きできるようになった時のハンナの高揚はそれは大変なものだったろうと思います。やがて、ハンナは文学だけでなく、ホロコーストに関する書籍を読みあさるようになったといいます。 自分の加担したホロコーストとは何だったのか、自分の過去はいったいどうだったのか知ろうとしたのでしょう。そうして、ホロコーストついて読み尽くした頃には、文字を読めるようになった時の高揚も失せていたでしょう。どんなに書籍を読んでも、自分がしたことも、自分の過去も、結局理解できるのは自分だけだと知って、ハンナは絶望に似た虚無感を感じたかもしれない。文盲であったがゆえに、常にその生涯を自分の尊厳を守るための闘いに明け暮れていたハンナは、その闘いから解放された時に、尊厳を守ることも、ぷっつりとやめてしまったのかもしれない。 「わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなったかということも、誰も知らないんだという気がしていたの。誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。ただ死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに」 前の記事でも引用してますが、面会に行ったマイケルにハンナがこう語っています。 すでに、自殺する何年か前から、彼女は生きることをやめてしまっていたのかもしれない。 でも、思うんですよ、もし、マイケルが手紙を書いていたら。 ほんのひと言のメッセージでも添えて、朗読のカセットを送っていたら。 もし、面会のときに、マイケルが愛情のある態度で接することができていたら。 そうしたら、ハンナは、また生きることを始めようとしたかもしれないのに。 そりゃ、マイケルのしたことも、しなかったことも、 仕方の無いことで責められないとも思うんですけどね。 仕方が無いこととはいえ、マイケルはかつて愛したハンナを何度となく裏切ってしまった。 原作は、そういうお話です。 原作のように、マイケルがハンナに対してある意味残酷であったことを描いたほうが、 物語の深みのようなものがあったと思うんですよ。 これは、好みの問題かもしれませんけど。 映画のマイケルは、ハンナのために献身的に朗読をしながらも何を考えているのかも解らないままでした。ハンナの手紙に返事を書かなかったことや、ハンナに会いに行かなかったことの説明も何も無いまま。説明しないことで、行間を読みとってくださいと映画を観るひとの想像に任せようとしたのかもしれませんが。 映画は、少年の日の愛を大人になっても貫き通した男の物語、といった印象なんですよね。 そして、それが映画の気に入らないところでもあるんですが^^; 映画では、もうひとつ、原作のあるシーンがカットされていました。 それは、少年の日、マイケルが15歳で、ハンナが何も言わずにマイケルの前から去っていってしまう前のこと。いつものようにマイケルはハンナと愛し合うのですが、その日に限ってハンナは本を読まなくていいと言い、「友だちの所に行きなさい」とすすめます。そして、マイケルが友人たちとプールで泳いでいたその時、プールの向こうにハンナが立ってマイケルをみつめているのでした。 このプールでの出来事のあとハンナはいなくなってしまったので、マイケルは、友人たちに怪しまれてでもプールを出て駆け寄らなかった自分を強く責めたのですが… これも仕方の無いこととはいえ、少年の日にもマイケルはハンナを裏切ってしまってました。 もしかしたら、「さようなら、坊や」とつぶやいていたのかしらと思うのですが、プールの向こうにぽつんと立つハンナというのが、なんとなく切ない映像として自分の中に浮ぶのです。 そして、原作には、こんなエピソードもあります。 ハンナが自殺してしまった後、マイケルがハンナの独房を訪ねてみると、その壁には、絵や詩の書かれた切り抜きに混ざって、青年時代のマイケルが載った新聞記事が留められていました。 マイケルの前から消えたハンナは、遠く離れた街で、ギムナジウムの卒業式で賞を贈られたマイケルのことを伝え聞いて、その新聞記事を手に入れ、何十年も大切に飾っていたのでした。 そのちっぽけな新聞の切り抜き記事が語っていますよね。 ハンナはマイケルを思い続けていた、ということを。 …すっかり映画レビューではなくて、原作語りの文章になってしまいましたが、「愛を読むひと」についての長い長い雑感はこれでおしまいです。 最後まで読んでくださった稀少な方に、心からお礼を申しあげます。 そうそう、映画は原作に比べるとよく描けてませんでしたが、 それでも映画化されてよかったと思うことがひとつあります。 原作を再読したときに、ケイト・ウィンスレットを思い描きながら、ハンナについて読むことができましたから^^ 評価の星は、、すべてケイトに捧げたものです^^ 「愛を読むひと」公式HP allcinema「愛を読むひと」 my評価 :★★★ (★五つで満点、☆は★の半分) ▲
by do-little
| 2009-07-05 20:22
| ■愛を読むひと
「愛を読むひと」原作を再読する前に・その1、
「愛を読むひと」原作を再読する前に・その2の続きです。 早速、ここから<ネタバレ注意!>です。 原作の内容に触れながらネタバレしまくりなので、どうぞご注意ください。 原作の「朗読者」、結局、一冊持ってるのに文庫本の原作も買って9年ぶりに読んでみました^^; いやあ、人間の記憶っていい加減よね~ …じゃなくて、私の記憶力が悪いんですが、そのうえに、自分の都合のいいように事実をねじ曲げて覚えてしまってることが多々あるので、ど~もこのお話の肝心なところを勝手に変更してしまっていたようです^^; わたくしめ、感想その1でこんなことを書いてました。 『原作ではその朗読という行為も、ある種の愛を紡ぐ時間のように思われて印象的だったのに、映画だと朗読がセックスの前後のおまけ的に描かれていた気がして、何となくそこが残念に思われたのでした。』 これが全く私の記憶違いで、原作でも、まるで餌を目の前にした小犬に"おあずけ"をさせてるかのように、ハンナはマイケルにまず本を読ませて、その後に本を読んだご褒美っぽく愛し合っているのでした。 ついつい、二人の朗読の時間を美化してしまったようで、本を読むこと=愛と思いこんでいたのですが、そうじゃなかったですね。ハンナは、ただ本を読んでほしかっただけ。マイケルは読まされていただけ。 まあでも、原作にも、本を読んでから愛し合うことが次第に儀式のようになった、とあるので、愛のかたちのひとつと考えられなくはないのですが、とにかく、原作では朗読そのものが愛情あふれる行為のように描かれていると思ったのは私の間違った思い込みでした^^; 原作を読んでみるとね~、強制的に本を読ませるハンナがけっこう女王様キャラで面白い、と思ったので、映画のケイト・ウィンスレットも、もう少し高ビーな態度でもよかったかもしれませんね^^ で、映画では、原作に描かれていた、ふたつのエピソード(どちらもハンナが怒っている)が省かれてしまっていたのですが、そこが私としては残念でした。 ひとつは、マイケルが学校をサボッて自分のところに来ていることを知ったハンナが激怒して、学校に行ってちゃんと勉強しなさい!とマイケルを追い出すシーン。 もうひとつは、自転車旅行の時の話で、ある朝マイケルは寝ているハンナにメモを残して、すぐ戻るつもりでホテルの部屋を出ていくのですが、部屋に戻ったらハンナが怒っていたというシーン。 マイケルがいない、メモは読むことが出来ない、という状況にハンナは怒り狂い、手にしていた革のベルトでマイケルが血を流すまで殴りつけてしまうのでした。 このふたつのシーンは、マイケルがとまどうほどの激しい怒りを見せるハンナを描いていると同時に、彼女の文盲(今は非識字者といわなければいけないみたいですが)であるがゆえの心情を描写していて、とても印象的だったんですけどね~ 映画のように、市電の二両目に乗ったことに激怒したハンナのエピソードだけだと、ハンナというひとを理解するうえで、怒ったことが唐突に感じられませんか? そういう意味でも、文盲のひとの複雑な心理を理解するうえでも、ハンナが怒ったふたつのエピが映画ではカットされてしまって、ほんと残念。 それから、原作を読んだ印象では、母親といってもいいくらいの女性でとにかく"おばさん"のイメージだったと書きましたが、これも私の思い込みで違ってました。 ハンナの描写を原作から引用してみますね。 「秀でた額、高い頬骨、薄青色の目、ボリュームたっぷりで、くぼみもなく均等に弧を描いている唇、力強い顎。大きくて、つんと澄ました、女っぽい顔」 「彼女の肉体やその態度、動作は、ときには鈍重な印象を残した」 「彼女はいつもきちんとしていて、骨太ではありましたがスマートで、徹底した清潔好きでした」 これって、かなりケイト・ウィンスレットが演じたハンナっぽいですよね^^ 自分が勝手に思い込んでいた"おばさん"ではなくて、原作のハンナは映画のハンナに近い、女盛りの女性だったんです。 それで、映画を観て疑問に思って原作で確かめたいことがある、と以前に書きましたが、一番の疑問は、"なぜマイケルは、ハンナの手紙に返事を書かなかったのか"ということ。 それは、"なぜマイケルは、読み書きのできるようになったハンナの喜びを分かち合おうとしなかったのか"という疑問でもあり、"なぜハンナは死んでしまったのか"という疑問にもつながることだと思うのですが… それについては後で書くとして、先にもうひとつのややこしい疑問について書いちゃいますね。 それは、"ハンナが刑務所での日々を贖罪の気持ちを持って過ごしていたのだろうか"、ということ。 いやまあ、普通に考えたら、罪を償う気持ちでいたんだろうと思うのが自然なんですが、 映画では、恩赦で刑務所を出ることが決まったハンナにマイケルが会いにいった場面で、マイケルがハンナに自分の犯した罪についてどう思ってるの?と聞いたとき、「裁判までは考えてもみなかったわ」と答え、その後は?という問いには、「死者のことを私が考えたからって、彼らは蘇らない」と答えているのです。 ネットを徘徊していて、あるブロガーさんが「ハンナが死者は蘇らないと言ったのは、反省していないという意味ではなく、自分の罪は償おうとしても償うことができないほどに重いと思っての言葉」と書いていたのを見かけましたが、そりゃ深読みすればそう思えなくもないけど強引な解釈のような気もするし、とりあえず、映画のハンナのセリフをそのまま受け取るとそこまでの贖罪の気持ちのようなものは感じられないわけで。 それなのに、ハンナは「ユダヤ人の生き残った娘さんに渡してください」という遺言と共に、いくばくかのお金を遺していたんですよね。 しかも、マイケルがそのお金をニューヨークの(今は作家として成功している)ユダヤ人の女性に届けに行く場面まであって、その女性に「このお金を受け取ると彼女(ハンナ)を赦すことになってしまうので受け取れない」とまで言わせているので、なんだかその場面がすごく不自然で付け足しのように感じてしまったのでした。 極端なたとえですが、「私は貝になりたい」の主人公が処刑される前に、本心からではなく「アメリカ人の捕虜を処刑したことを申し訳なく思います」と言って死んでいったような、それくらいの違和感を感じちゃって。 これって、アメリカで公開する時にユダヤ人の受けがいいように、映画の脚本で付け加えたシーンで、原作にはないくだりなのでは?なあんて、変に勘繰ってしまったのでした。(これは全くの考え過ぎで、原作にニューヨークでのシーンはちゃんとあったのですが^^;) そもそも、この映画のテーマというのが、被害者の立場から描かれることの多かったホロコーストを、加害者の立場から描くことにあったような気がしたし、貧しい生まれで学ぶ機会すらなかったひとりの女が、生きることで精一杯だったために、文盲ゆえに職業を選ぶ余地が無かったために、ドイツの親衛隊に入隊して生活の糧を得たことが果たしてそんなに責められるか、ということを訴えているのかな、と思っていたのです。 恵まれた家庭に戦後に生まれ、インテリでもあったマイケルが、訪れた捕虜収容所跡で過去のホロコーストの惨状を振り返り、ハンナの罪の重さ、恐ろしさに涙を流したのに比べて、ハンナはそれ(捕虜を死なせたこと)は仕事であり仕方のないこと、と裁判の時点では考えていたはず。 その後、服役して長い年月を過ごすうちに、ハンナは自分の罪を認めて贖罪の気持ちを持つようになったのかと想像することはできるのですが、とりあえず、映画でハンナがマイケルに言ったのは、「死者のことを私が考えたからって、彼らは蘇らない」であり、それなのに死後に償いのお金を残していたあたりがその言葉とつながらなくて釈然としなかったのです。 長くなりましたが、じゃあ、原作では、刑務所に面会に行ったマイケルとハンナのやり取りがどんなだったか、ご紹介しておきますね。 「裁判で話題になったようなことを、裁判前に考えたことはなかったの?」 「それがとても気になるわけ?」 「わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなったかということも、誰も知らないんだという気がしていたの。誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。ただ死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに」 これが、原作でハンナが語っていたことです。 映画は字幕の文字数の制限があるとはいえ、上の原作のセリフと映画の「裁判の前までは考えてもみなかったわ」「死者のことを私が考えたからって、彼らは蘇らない」ではずいぶん違いますよね。 原作のセリフなら、裁判でのハンナの態度と、彼女が死後に償いのお金を残していたことが、不自然でもなんでもなく、ひとつにつながりませんか? さらに、原作では、字を読めるようになったハンナが、ユダヤ人犠牲者についての本や、ヘスの伝記、ホロコースト裁判のレポート、強制収容所についての研究書を読んだことが描かれています。 刑務所での長い年月の後、ハンナは自分のしたことは何だったのかを知り、過去の罪に向き合おうとしていたのですね。 だから、"ハンナが刑務所での日々を贖罪の気持ちを持って過ごしていたのだろうか"、という問いへの私からの返答(自問自答ですね^^)はこうです。 "ハンナは最後まで自分のしたことは仕方の無いことだと思っていた。でもそれは誰にも理解されないことだと解っていた。一方でそれが重い罪であることも知っていた。裁判までは忘れることのできた過去だったが、裁判の後は、一日たりとも忘れることはできなかった。ハンナは常に自分の過去を背負い続けて生きていた。" え、でもハンナは、自転車旅行のときに、教会で涙を流していたでしょう?って疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれませんね。 そうなんですよね、あの場面を、ハンナが過去の罪を、特に教会に閉じ込めた捕虜を焼死させたことを思い出して泣いていた、と解釈されてる方も多いようなんですが、それではあまりに単純すぎるような気もしてしまって… それに、あの教会のシーンって、原作には全然無いんです^^; どうも、映画の脚本は原作の残すべき部分をカットしちゃって、ハンナのことをわざわざ解りにくい存在にしちゃうよ~な場面を付け加えてるんですよね~^^; あの涙は、生きることに必死だったハンナが、文盲であることを隠すために常に鎧に身を固めて闘ってきたハンナが、賛美歌の清らかな歌声を聴くうちに、心の安息の無いままに生きる自分を思って流した涙、ということに私はしておきましょう。 また、長くなってしまいました。 ここで、またいったん切ります^^; この物語の最大の疑問、"なぜマイケルは、ハンナの手紙に返事を書かなかったのか"については、次のエントリーで。 よかったら。いえぜひぜひ読んでください^^ (感想、長過ぎだよね~、って自分でも思います。すみません^^;) 「愛を読むひと」と「朗読者」を比べて・その2に続く ▲
by do-little
| 2009-07-03 05:33
| ■愛を読むひと
「愛を読むひと」原作を再読する前に・その1の続きです。
続きをさくさく書かないで、ゴメンナサイ。 遅いのはいつものことですが、原作の「朗読者」で確かめたいことがあって、それができなくてもやもやしてた、というのもありました。 新潮クレストブックスだった原作の本は発売されてすぐ読んだので、読んだのは9年前。 たぶんあの本棚にある、というのは解ってるのですが、その本棚というのが本の魔宮殿というか 本の墓場というか、二重スライド式なのにあらゆる場所に本を突っ込んだり積み重ねたりしたため、スライドを動かせなくなっちゃったんですね^^; 二重スライドの奥にあるであろう「朗読者」を取り出すには、9年間かけて積み重ねた本を整理しないといけないと解って、これはもう無理!とあきらめてしまいました^^; じゃあ、本屋行って、立ち読みしちゃえばいいじゃん、と家の近くのTSUTAYAの本屋と駅ビルの本屋に寄ってみたのですが、これがまるで使えない本屋で。 今公開してる映画の原作だっちゅうのに、ないじゃん、「朗読者」! いったいなんで、「天使と悪魔」は特集コーナーもあって、「真夏のオリオン」の原作も、「剣岳 点の記」も、「いけちゃんとぼく」も、「余命1ヶ月の花嫁」のノベライズも、「おっぱいバレー」の原作本ですらあるというのに、「朗読者」は置いてないんだろう…! これは、うちの近くの本屋がダメダメ本屋のせいかもしれないけど、 新潮社の営業が怠慢こいてるって言っちゃっていいんじゃなかろう~か? よりによって、"本を読むことの素晴らしさ"も訴えてる内容の本だというのに、ったく~ って、いい加減に前置き長すぎなので、「愛を読むひと」の感想にいってみたいと思いますが^^; でね、感想その1では、ケイト・ウィンスレットがハンナ役に起用されたことを、原作からもうちょっとおばさんをイメージしてたのに、若すぎ、綺麗すぎ、てなことを書いたわけですが。 ある場面で、"わあ、ケイト・ウィンスレット、ちゃんとおばさんだ"って思いました。 それは、ハンナがマイケルに誘われて自転車プチ旅行に出掛けるシーン。 マイケルの先を自転車で走るケイトの後ろ姿が見事に"おばさん"だったんです。 あの時、ハンナはプリント柄のノースリーブのワンピースを着てたんですが、 これがまた、彼女のがっちり体型の目立っちゃうお洋服で^^ 天下のオスカー女優にこう言っちゃ失礼なんですが、ケイト・ウィンスレットは、骨太でがっちりしてる上に、二の腕も逞しくて、顔が大きくて、しかも実は微妙に首が短い。 ってここまで読んで、私がケイト・ウィンスレットの悪口を書いてると思ってしまった方、違いますよ^^ ケイトの体型が、ハンナという役をなんてリアルにしてることだろう。 そう思って、惚れ惚れとしてしまったんです。 比べる引き合いに出してしまって申し訳ないんですが、 例えば、同じくオスカー女優のニコール・キッドマン。 最初、ハンナ役に予定されていたケイト・ウィンスレットが「レボリューショナリー・ロード」の撮影時期と重なってしまうために降板したとき、次に起用されたのはニコールだったんですが、彼女もまたおめでたで降板して、またケイトにハンナ役がまわってきたのだそうです。 これはもう、コウノトリがGJでしたね^^ だって、ニコール・キッドマンは演技もできて文句のつけどころのない美人女優だけど、 きっと、つまんないハンナ像ができあがったと思いますよ。 彼女にあのプリント柄のノースリーブのワンピースを着せてごらんなさい。 普通に素敵になっちゃうでしょ? ハンナというひとは、女盛りの女性ではあるけど、武骨で、垢抜けてなくて、ぱっと見が素敵な女性では違うと思う。 どことなくおばさんぽい、がっちり体型のケイトだからこそ、他のどのトップ女優さんよりハンナらしいハンナを演じられた。ってまあ、私だけが個人的にそんなことを思ってるだけなんですけどね^^ 思えば、長い道程でした。 ケイト・ウィンスレットという女優さんがハンナという役柄にめぐりあうまで。 「タイタニック」で初めて彼女を観たときの私の第一印象というのが、まあなんて、ヒロインにしてはがっちりして、骨太の女優さんだろう、というものだったんですよね^^ その時のケイトは22歳だったんですが、明らかに相手役のディカプリオより老けてたし、まだ少年ぽい細身の体型だったディカプリオよりも、かなりボリュームのある体型だった^^ この女優さん素敵だなあと思いつつも、なんでまた、こんなにディカプリオとお似合いじゃないヒロインを起用したんだろって思ったものでした。(ところが、「レボリューショナリーロード」では、ケイトが相手役にディカプリオを指名したというので、えっ!と思いましたが^^;) 「タイタニック」での役柄は貴族の娘という設定だったのですが、ケイトはすごく庶民ぽかった。 それこそ、タイタニックの三等船室でケルトのダンスを踊ってるほうが合ってそうなくらい^^ いや、ケイトは顔立ちそのものは、彫像のように古典的で、「いつか晴れた日に」や「ネバーランド」といったコスチュームプレイに多く出演してるくらいの女優さんなんで、貴族の娘役はOKなはずなんですが。 「タイタニック」では赤毛だったせいで、貴族の娘っぽくなかったのかも。 (ケイトは「エターナル・サンシャイン」でイカレた女性役で髪の毛を真っ赤に染めたり青く染めたりしてるんですが、意外と個性的ではじけた役もこなしてたというか、なんかイメージが変わってマドンナみたいな雰囲気だったんですよね。女優さんて髪の毛の色ひとつで変わるからな~。ケイト・ブランシェットなんてほんと映画ごとに化けますもんね^^) まあ、貴族の娘というには、あまりにもケイトの演じたローズが"生きる力"にあふれてた、というのもあるかな~ いかにも、北大西洋の凍るような海につかっても生き残りそうな感じだった^^ ってついつい「タイタニック」のケイトに行数をさいちゃいましたけど、 何が言いたいかというと、「愛を読むひと」のハンナ役を演じるための素地は、すでに22歳のときからあったんじゃないかということ。 「タイタニック」で世界的に大ブレイクした後のケイトは、26歳になるまでマイナーな作品ばかりを選んで出演しているのですが、これって、"私はスター女優じゃなくて、演技者なのよ"というケイトの主張というか意地のようなものを感じさせられるんですよね。 ケイト自身が「朗読者」という原作を読んだときには彼女は27歳で、「もう少し年上なら、この素晴らしい役が出来るのに」と思ったとか。 そうして、プライベートでも結婚して出産して離婚して、再び結婚して出産して、演技者としてもキャリアを重ねた32歳のときに、ケイトにハンナ役のオファーがくるわけで。 映画の宣材のひとつに『ウィンスレットの成熟を待っていたかのような、映画化のタイミング』というコピーがあったけど、ほんとにハンナという役柄は、ケイト・ウィンスレットが年齢や経験を重ねるのを待っていたような気すらしてしまう。 それくらいのハマリ役、というか^^ もちろん体型や年齢だけじゃなく、貧しい生まれでとにかく生きるのに必死だったハンナ、ある秘密を抱えているがゆえに、誰に対しても心を閉ざし、その秘密を守るためにひたすら頑な生き方をしたハンナを演じるには、ケイトの演技力が何よりも不可欠だったのですが。 ホロコーストについてもそれほど知識が無かったというケイトは、知らないことは知らないと言って人に教えを乞うのだそうな。 「知らないことも、裸になることも恥とは思わない。 演技者として恥なのは、与えられた役を演じきれないこと」 そう語っているケイトは、これ以上ないというくらいにハンナ役を演じきってみせていた。 …と、ケイト語りが長~くなってしまいました^^; 物語を読み解くこともしてみたいと前に書いたのですが、それは続きで。 やっぱり、原作を読んで確認したい疑問点があるので、今日明日にでももっと大きい本屋さんに行って、「朗読者」の文庫本を探してきます。 原作で確認したからといって、映画の物語を読み解くことが私の独断と偏見になっちゃうことに変わりはないんですけどね^^; もう、ダラダラと書くのもいい加減にしろって感じで、続きを読んでいただけるのかって感じですが、 もう少しおつきあい願えたらめちゃくちゃ幸いです^^ 「愛を読むひと」と「朗読者」を比べて・その1に続く ▲
by do-little
| 2009-07-01 08:44
| ■愛を読むひと
タイトルを打ち込みながら、やっぱり「愛を読むひと」って陳腐な題名はないだろ~
と思ってしまう^^; 原作の翻訳本の通り「朗読者」でよかったのにね。 「朗読者」の字ヅラがよくないってんなら、「The Reader」でもよかったのに。 てな感じに、ひっかかるハードルの多い映画でしたが、それでも観てまいりました。 ケイト・ウィンスレットの作り上げたハンナ像が観てみたかったのですが、 期待通り、よかったです。 胸の痛くなるようなハンナのあの眼差し、観に行ったかいがあった~^^ 映画そのものはどうかな~、たぶんよくてもそこそこのデキと思っていましたが、 こちらも、予想通り。 ここから<ネタバレ注意!>です。 公開中の映画なので、映画をまだご覧になってない方、ご注意ください。 いや~、英語の映画だって覚悟して観ましたけど、 主人公のミヒャエルがマイケルになってたのには、映画館の座席から思わずずり落ちそうになりました^^; そう、この映画でひっかかるハードルのひとつは、 ドイツを舞台にホロコーストを扱った作品でありながら、英語の映画だということ。 レビューの掲示板を覗いたら、そこにひっかかってるひとがかなり多くて、 なんだ、みんなそう思ったのか、そうだよな~ってうんうんうなずいてしまいましたが。 そりゃね、どんな国のお話でも英語っていうのは、まあアメリカ映画のお約束みたいなもので、 めっちゃ古過ぎだけど、古代ローマ帝国のベン・ハーだって英語で喋るし、 オードリー・ヘップバーンの「戦争と平和」だって、英語。 最近では、ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」が英語だったのが微妙にひっかかりましたけど、まだそういった史劇やコスチュームプレイなら英語でも気にしないでいられるんですよね。 ところが、時代が下って第二次世界大戦を描いた映画くらいになると、もう気にせずにはいられない。 以前、「戦場のピアニスト」という映画を観て、これは主演のエイドリアン・ブロディもよかったし、ていねいに描かれた物語もよかったのですが、ドイツ軍はドイツ語を喋るのに、ポーランド系ユダヤ人の人々が英語を喋るのがなんだか残念で、せっかくの映画に玉に傷といった印象でした。 (だから、日本人にしてみたら、「硫黄島からの手紙」を日本語で撮ったクリント・イーストウッドにはお礼のひとつも言わなくちゃいけないくらいだと思うんだけど) 解ってますよ、アメリカ人は字幕が苦手。 だから、アメリカでの興行成績や賞レースを考慮したら、製作側は英語の映画にせざるをえない、ということも。 でもね~、「朗読者」が英語で映画化されると聞いたときには、 これは「戦場のピアニスト」以上に気になるだろうな~と思ったのです。 で、観てみた結果は、前述のミヒャエル→マイケルのところと、 マイケルのことをハンナが「坊や」と呼ぶのですが、その度に「kid」という音が気になったのと、 ハンナがチェーホフの「犬を連れた奥さん」で英語を学ぼうとするくだりと、ハンナの手紙に書かれた言葉が「Thank you for…」といった英文だったところはめちゃくちゃひっかかりました。 でも、そこ以外では、危惧してたほどひどく、いちいち気になるって程ではなかったかな。 ハンナ役のケイト・ウィンスレットもインタビューでドイツ語訛りの英語を練習したと言ってましたが、ほんとに映画を観ていて、ハンナの言葉がドイツ語のように響くときもあったのです。 でも、ドイツ語訛りの英語って、英語のネイティブの人が聞いたらかえって違和感じゃないのかなあ? まあ、アメリカ人はOKでも、やっぱり日本人には変てこりんですよね、 英語で話し、英語で読み書きするドイツ人って^^; で、ふたつめのハードルが、原作既読で、自分なりのハンナのイメージを描いていたこと。 私のイメージだとね~、ハンナはマイケルの母親といってもいいぐらいの歳ということで、40歳以上の女性を描いていたんですね。 無愛想で、体つきも無骨で、とにかく、おばさん。 だから、そのハンナ役をケイト・ウィンスレットが演ると聞いて、最初はえ~!!!って感じでした。 若すぎ、綺麗すぎ、違う違うってね。 ハンナが若くて綺麗だと、マイケルと出逢ってからしばらくの物語が、年上の女性に憧れる少年の「青い性」みたいな話になっちゃうじゃん^^; 絶対観たくないような、おばさんと少年の行為だから、その痛さが物語としてアリだと思ってたのに。 結果、映画はどうだったかというと、やっぱり、「愛を読むひと」のそれは美しい年上の女性が少年に手ほどきしちゃうっていう映画でよくあるパターンだった^^; しかも、ケイトがおばさんを演じようとして半端に体の線を崩しているから、よけいにエロかったかも。 まあでも、たいしてエロくもないんですが、相手がしたくて仕方ない年頃の少年というのが、どうも個人的には生理的キモさがあって…^^; それに、マイケルはハンナに乞われるままに本を読んであげるのですが、その肝心なシーンがエロシーンに圧倒されちゃってたのが不満。 原作ではその朗読という行為も、ある種の愛を紡ぐ時間のように思われて印象的だったのに、映画だと朗読がセックスの前後のおまけ的に描かれていた気がして、何となくそこが残念に思われたのでした。 誰かが誰かに物語を読んで聞かせてあげる時、そこにはものすごくキラキラとしたふたりだけの世界があると思うんだけど、その喜びみたいなものを、もうちょっと映像で見せてほしかったなあ… で、冒頭の絡みのシーンあたりでは、ケイトがイメージしてるハンナより若くて綺麗というのがひっかかったのですが、それ以降のシーンでは、ケイトは文句なしのハンナだ、と思うようになりました。 というか、私が原作を読んで描いていたハンナとは違ったのですが、ケイトが作り上げたハンナ像がとても興味深くて、また心に深く刻まれるような印象深い人物だったのです。 無知で、頑なで、心を閉ざしていながらも、人としての温もりをその奥底に隠し持っている。 そんなケイト・ウィンスレットが演じたハンナ、よかったなあ… それについては、続きの「愛を読むひと」 感想その2で。 それから、「愛を読むひと」を多少読み解くことも、続きの中でしてみたいと思います。 ハンナのとった行動はおおよそ推察できるのですが、マイケルのとった行動には、色々と疑問に思う点がありませんか? 最大のなぜ?は、『マイケルは何故、ハンナの手紙に返事を出さなかったか』ということ。 その答えを私なりに考えると…。 「愛を読むひと」原作を再読する前に・その2へ続きます。 ▲
by do-little
| 2009-06-26 09:10
| ■愛を読むひと
いいんですよ。
悪くはないんです^^; ただ、三木聡監督が好きな監督なだけに、 過去の作品のほうがインパクトあったなあと思うだけ。 特に、「亀は意外と速く泳ぐ」のほうが、愛すべき作品だったような。 てか、「亀は…」>「ダメジン」>「図鑑に載ってない虫」>「イン・ザ・プール」>「インスタント沼」かなあ。 「転々」は大好きな作品ですが、三木聡監督の別路線で別格ってことで。 ここから<ネタバレ注意!>です。 何が困ったといって、 主人公の沈丁花ハナメさんがあまり好きになれないのが困りました^^; 麻生久美子が演るなら、時効警察の三日月しずかみたく、ぽ~っとした人物のほうがいいなあ。 いや、麻生久美子は頑張ってたと思いますよ。 でも、その頑張って演じてますというのが画面からビシビシ伝わってくるのがちょっとね~^^; それに、ハナメさん、性格きついんだもの^^; 人生ジリ貧で頑張るハナメさんだったけど、がんばれよ~って応援する気にあんましなれない。 上野樹里ファンじゃないですけど、「亀は意外と速く泳ぐ」の片倉スズメ役はよかったなあ~ なんか、ただスクリーンの中にいるだけでも愛嬌があった、というか。 後の、のだめ役とは違って作為のないおもしろみをほんわかと漂わせてましたっけ。 麻生久美子は好きな女優さんなんですよ。 「夕凪の街 桜の国」の彼女も、「たみおのしあわせ」の彼女も、「純喫茶磯辺」の彼女も、よかった。 でも、「インスタント沼」の麻生久美子は、そういった作品での印象的な役に比べては、そんなに光ってなかったと思う。 「おと・なり」や「ウルトラミラクル…」はまだ観てないのですが、麻生久美子比ではどんななんでしょうね~ でまあ、お話そのものもね~^^; ハナメがなんでもない錆びた折れ釘になぜか思い入れを持ってしまう気持ちはすごく解るし、 凹んでいるときに、蛇口を開けたままジュースを買いに行っちゃうとか、ちょっとしたことで人生楽しくなるよ~というメッセージも、いいんだけど。 なんかね~、全体的に説明的なのよね~^^; ナンセンスが足りないって感じ。 もちろん、小ネタ満載で、あちこち笑わせてもらいましたけど("ちくわ"とか、おでんのネタが続いたあとに"虞美人草"って出ちゃうとこが一番笑えた^^)。 「インスタント沼」ってタイトルからして、意味不明なとこがいいな~と思ってたら、ちゃんとそのものが登場してきちゃうし^^; さらに、せっかく苦労して作った沼だからこそ、ショボ~イ物しか出てこなかったっていう方がよかったな。 あんな立派な○○○が沼から飛び出してきちゃうなんてね~ 超つまんない、って思いましたよ。しかも三木作品にCGだなんて^^; あの、昔捨てた黒い招き猫が出てくるだけだったら、その方がどんなに面白かったことか。 とどめが、ハナメさんの電気工事の高所作業者でのセリフ。 「人生泣いてる時より、笑ってることの方が多いから~」とかなんとか叫んでましたけど、なんか言ってるな~くらいにしか思えませんでしたよ^^; ふせえり、岩松了、松重豊、江口のりこ等々、三木ファミリーの面々とまた会えるのは嬉しかったですけどね、みなさん、どなたも過去の作品に比べて面白さが少々パワーダウンだったかと。 温水さんがやたら面白かったな~^^ 風間杜夫、へんなヘアスタイルで好演でしたけど、「転々」では三浦友和にびっくりさせられたので、それに比べるとまあ想像の範囲内の演技でした。 加瀬亮、ちょうど同時期に観た「グーグーだって猫である」で、加瀬亮史上最低の役?を観ちゃったもので、まるでこの映画の加瀬亮は口直しというか一服の清涼剤みたいでした^^; 肩に力が入ってないとこがよかったし、パンクファッションも細身のせいでよく似合ってました^^ 相田翔子、「花とアリス」「虹の女神」に続いて、すっかり中年だけど少女っぽい変なひと、という役柄が定着してきましたね~^^; 最後に、三木作品というと、監督自身の趣味がそうなのか、スタイリストや美術さんでいいスタッフを従えてるのか、小道具のかわゆさも見どころなんですけど、これも、「亀は意外と速く泳ぐ」のほうがよかったかな~ 衣裳についてもね、沈丁花ハナメさんのファッション、よかったですけど、好みからいうと、「イン・ザ・プール」で市川美和子が着てたお洋服の方がさらによかったなあ。 「ダメジン」で市川美日子が着てたお洋服もかわいかった^^ あとロケ地も。 「亀は…」が三浦のあちこちでロケしててよかったので、この映画でもロケ地にちょっと期待してたんですけどね。 ずいぶん次から次へとしつこくケチをつけてしまったけど、 ほんと「インスタント沼」も悪いデキではないんですよ。 ただ、もうちょっとおバカなしょうもない話にして、ほんのちょっとラブリーだったら、もっとよかったかな~って思うだけ。 「インスタント沼」公式HP allcinema「インスタント沼」 my評価 :★★☆ (★五つで満点、☆は★の半分) ▲
by do-little
| 2009-06-09 07:45
| ■インスタント沼
観てきました~
とにかく期待しないで、凡作だろうけど、きらりとした場面がひとつでもあれば、と かなりハードルを低くして観にいきましたが、 ハードルは気持ちよく越えてくれました^^ 珠玉の凡作、といった感じかな^^ 綾瀬はるか演じる主人公の美香子が、人の言葉に流されてしまう弱さを持った人間として描かれていて、そこらへんの掘り下げた部分がよかったです。 特に、教師になるきっかけになったエピソードが好きだった^^ 逆に、そのエピがなかったら、全体的に浅い内容でやっぱりこんなものかと思う映画だったかも。 色気づいた中学生ってキモいもんだと思うんですが、そんなことは全く無く、6人とも好感の持てる男の子でした。むしろ爽やか過ぎて物足りないくらい。 もうちょっと気恥ずかしかったり、甘酸っぱかったりする物語かと思ったのですが、 男の子たちの描き方はあっさりでした。 主人公の美加子の方が丁寧に描かれていて共感できる部分も多いので、女性におすすめの映画かもしれません。 期待しないで観に行けば、まあまあいい気分で映画館を出ることのできる映画です^^ ここから<ネタバレ注意!>です。 とにかく、ワーナー・ブラザーズが関わって、ロボット製作、監督が羽住英一郎、というのを聞いた時点で、これはもう、お菓子みたいな映画しか期待できないかもね~と思ってました。 面白いけど、面白いだけ。口当たりが良くて、誰でも観やすいだけの映画かな、と^^; その予想に反して、心に引っかかった部分というのが、前述した主人公美香子について掘り下げた部分。 もしかしたら、脚本の岡田恵和(最近、銭ゲバで頑張ってくれてました)が掘り下げて書いてくれたんじゃと思っているのですが(原作未読なのでちょっと解らないですが)。 美香子は、以前勤めていた学校で教え子たちをコンサート(シーナ&ロケッツでした^^)に誘うのですが、コンサートに行ったことが問題になった時に、つい自分から誘ったと言いそびれてしまって、結局生徒のせいにしてしまった過去があったのでした。 「嘘つき」と生徒に言われて学校に居づらくなり、それで三ケ崎中学校へと新しく赴任してきた美香子。きっぱりとしたことが言えなくて、ついつい保身に走ってしまうようなひとって、 自分もなかなか自分のせいだと言えないほうなので、けっこう共感してしまうんですよね。 しかも、そういう事って、いつまでもズキズキと心の傷痕になってしまうもので^^; 美香子も、時々その時のことが鮮明に蘇って、その度に後悔の気持ちに苛まれるんでしょう。 まず「嘘つき」という言葉だけが美香子の心にフラッシュバックして、後で過去の傷が明かされるという描き方もなかなかよかったと思うし、美香子が教師として自信を失っているという設定が、物語にちょっとした陰影をあたえていましたね。 生徒たちの成長物語というより、どちらかというと教師美香子の成長物語で、その点が綾瀬はるか贔屓の私としては、この映画を観たかいがあったと感じた部分でした。 そして何より好きな部分だったのが、中学時代の美香子が読書感想文を書かされるエピソード^^ 美香子は友達に誘われるままに万引きをして補導されてしまい、停学処分として毎日読書感想文を書くことになるのですが。本を渡されるたびにイタズラ書きをしていた美香子が、「道程」には心を打たれて感想文を書いたところ、それが市のコンクールに入賞して。 それまで、何が得意というのでもなく、何かを誉められたこともないひとが、たとえ市のコンクールでも入賞したらめちゃくちゃ嬉しいもんだろうって、美香子の気持ちがとてもよく解るエピソードでした。 そして、本を毎日渡してくれた先生のひと言がきっかけで、自分も国語教師を目指してみようかという気持ちになる。 人生の早い時期に、こんな風な本との出会いがあって、導いてくれる教師との出会いがあるなんて、ちょっとうらやましいくらい^^ 市役所に飾られた感想文をみつめる美和子の表情が、まるで内から輝いてるようでした。 この時の、中学生の美和子を演じてたのが、大後寿々花^^ 彼女は、ドラマ「セクロボ」でいいな~と思って、「シバトラ」では冴えないな~と思った若手の女優さんなんですが、この映画では表情だけで魅せていて、やっぱたいした才能のある女優さんなのかなと思わせられました。 それに対して、綾瀬はるかはどうだったかというと。 これは、日頃から応援してるからこそ辛口になるんですが、期待してたほどは、いい表情が観られませんでした。 「ハッピーフライト」の次の仕事だったせいではないでしょうが、型にはまった表情をつくってしまってるなあって感じた場面もいくつかあったし^^; わあすっごくいい表情!って思ったのは、立ち飲みの居酒屋でビールを飲んだシーンで一瞬見せた顔くらいでした^^ あと、自宅で必死で練習メニューを作って、劇画っぽく颯爽と部室に入ってくるシーンの顔もよかったけど。でも、もっとナチュラルで素敵な表情がいっぱい観たかったなあ… いつも思うんですよ、マックスファクターのCMの時は、女優さんぽいじゃん、という感じに表情の豊かさで魅了するひとなのに、そういうのが映画ではあまりないな~って。 あと、この「おっぱいバレー」の撮影の後、綾瀬はるかの激やせぶりがファンの間で話題になったんですけど、そんなに痩せちゃうくらい、北九州でのロケが暑くて大変だったんだそうです。 もしかしたら、そんな体調面の冴えなかったことが、いまひとつ表情も冴えなかった理由のひとつかも^^;笑顔もどことなく弱々しかったですし。きっと、我慢強い彼女のことだから、暑さに負けないように頑張って撮影してたに違いないんですが、それでも、元気の無さはどことなくスクリ-ンに現れてしまうのかも。 「僕の彼女はサイボーグ」のときは、元気いっぱいでキラキラしてましたもんね~ 男の子たちは元気いっぱいだったけど、なにしろ、ひとりひとりの描き分けがいまいちだったかなあ。高校には進学せずに家の商売を継ぐ子もいたりするんだけど、それも全部セリフでちょろっと語ってすませてたし。 6人ともキャラが立ってたので印象の違いはあったけど、おっぱいおっぱいって脳天気に言ってるばっかという感じで、もう少し、ひとりひとりに役柄の肉付けをしてほしかったです。 まあ男の子たちは、あえて、おっぱいのことばかり頭にある単細胞ということにして、掘り下げては描かなかったのかもしれないし、どの子もいい感じの子だったので、ま、いいかとも思いますが。 気になったのは、とにかく、美術。 やたらレトロカーが登場してきて、もう気になる気になる。 しかも、作りこんだ感じのレトロな映画館のセットがまた違和感ありまくり^^; 1979年の北九州が舞台の話なのに、あれじゃあ、「ALLWAYS 三丁目の夕日」の時代かって感じでした。 マジソンスクエアのバッグとか、深夜のオトナの番組だった11pmとかで、十分懐かしい雰囲気は出てたのに。なんで、お金かけてわざわざ不自然にしちゃったんでしょうね~^^; それより、せっかくのロケ地だった北九州の風景をもっと生かして、街の空気も伝わるような映像にしてれば、「おっぱいバレー」という映画がもっと秀作に近づいたと思うんですよ。 工場地帯を一望にする階段道のシーンとか、面白い絵になってたのに。 変にレトロを強調しちゃったあたりが、娯楽映画が得意な製作会社と監督さんで仕方ないところなのかな… 最後に、どうでもいいこと。 デートの時の美香子が素敵なお洋服でしたが、後ろから撮ったシーンで、やたらロングヘアがパサパサしてるのが目についてしまって^^; ありゃ~、綾瀬さん、パンテーンでトリートメントしないと、ってつまんないことを考えながら観てました。ヘア・メイクさんが何とか艶のある髪に見えるようにしてあげればいいのにね~ あと、パンフレットがよくない~ 製作する際に、最近の他の映画のパンフとかリサーチしないんでしょうか? 「アフタースクール」のパンフが学校で使うようなノートのデザインだったのに、「おっぱいバレー」のパンフも、全く同じようなノートスタイル。 しかも、肝心の綾瀬はるかの写真が全然少ないので、綾瀬はるかファンは買わなくていいかもしれません。 文句ばっかりつけてるので、いいことも。 映画のエンドロールの最後の方で、お楽しみがあるんですよ^^ メイキング映像みたいな出演者のオフショット集があって、これがすごく楽しめるものになってます。 主演者のみんながカチンコを手にしながら、とっておきの素の笑顔を見せてくれてますから、これ絶対必見ですよ~^^ 「おっぱいバレー」公式HP allcinema「おっぱいバレー」 my評価 :★★☆ (★五つで満点、☆は★の半分) ▲
by do-little
| 2009-04-21 06:21
| ■その他の日本映画
ボブ・ディランのいろんな側面を、6人の俳優で断片的に描いた作品。
ぶっとんだ伝記映画といえなくもないけど、 どちらかというと、ボブ・ディランへのオマージュというか、インスパイアされた創作だと思って観たほうがいいかもしれない。 YouTube「アイム・ノット・ゼア」予告編 でもこれって、ボブ・ディランのコアなファンにはおすすめできないんじゃないかなあ。 思い入れのあるひとの中には、観て怒っちゃうひともいたりして^^; ボブ・ディランに全く興味の無いひとにも、全然おすすめじゃないだろうし。 ちょうど、私みたいに、ボブ・ディランの好きな曲は何曲もあるけど、詳しくは知らないし、もっと知りたいと思う、そんなひとにおすすめ。 それから、"かっこいい女"が見てみたいひとに、ぜひぜひおすすめです^^ かっこいい女、というのは、6人のボブ・ディランのひとり、ジュードを演じるケイト・ブランシェットのこと。 彼女、ボブ・ディランになりきっているんですが、これがめちゃくちゃカッコいい! 女性が男性を演じてるという違和感も無いんですよね。 それは、若い頃のディランがどこか両性具有的な雰囲気だったのもあるし、 ケイトが男を演じようとしてないのが、かえっていいのかもしれない。 とにかく、カッコいいのひと言です。 まあ、パティ・スミスとか、ジョニ・ミッチェルとか、本職のミュージシャンのカッコよさとはまた違った、 女優さんのカッコよさなのかなあ。 ケイト・ブランシェットは、この演技でヴェネチア映画祭の女優賞と、ゴールデングローブ賞の助演女優賞も獲ってるんですが、この役に賞をあげちゃうってのも、なんか洒落てますよね^^ ケイトのパートがモノクロ(ナビゲーターっぽいベン・ウィショーのパートもモノクロ)で、またこのモノクロの部分が映像的にもカッコよくて、ちょっとアートっぽいグラフィカルな絵づくりもしてるので、その点でもおすすめです。 あとは、ディランの恋人として有名だったスーズを思わせるクレアの役をシャルロット・ゲンズブールが演じてるんですが、このスーズ像が印象深かったです。 スーズって、私は知らなかったのですが、単なる恋人以上の、ボブ・ディランのミューズ的存在だったんでしょ? スーズのことも知ってたよ~という友人によると、けっこう実在のスーズをイメージさせる微妙な雰囲気を出してたそうです。 そういえば、シャルロット・ゲンズブールのお母さんのジェーン・バーキンも、 雰囲気のあるカッコいい女性でしたね^^ 6人がボブ・ディランを演じてるというのに、ケイト・ブランシェットのことばかりになってしまいましたが、正直、私にとってはこの映画はとにかくケイトを観る映画だったな~ 残る5人のうちのひとりを亡くなったヒース・レジャーが演じていて、ヒースの貴重な瞬間を観れたことも、よかったと思いますが… 残りの5人のボブ・ディランのうち、リチャード・ギアはビリー・ザ・キッドとしても違うんじゃないかって思ってしまいいました。 もちろん、全編、ボブ・ディランの名曲の数々が聴けます。 ケイトは吹き替えですが、俳優さんが自分の声で歌うディランの曲もあって、特にボブ・ディラン=ウディー役の黒人の少年が自分の個性で歌うボブ・ディランは面白いなあと思いました。 そうなんですよ、ボブ・ディランは女性でもあり、黒人の少年でもあるんですね。 ボブ・ディランを演じる6人の役名が、ビリーだったり、ジュードだったり、ウディだったりするのも、それぞれ意味がある名前みたいですけど、観てる側にしたら、かなりややこしい^^; "ボブ・ディランは誰のようでもあるんだよ"って、ことなんでしょうかね~ 映画を観終わったあと、本物のボブ・ディランを観たくなって、 YouTubeの動画をひとしきり彷徨ってしまいました。 Amazon.co.jpのページ「アイム・ノット・ゼア」 my評価 :★★☆ (★五つで満点、☆は★の半分) ▲
by do-little
| 2009-03-11 08:36
| ■その他の洋画
148分、一瞬も飽くこと無く観た映画だった。
アラスカの荒野に捨て置かれたバスがぽつんとある光景に心惹かれた。 主人公のクリストファーについて色々なことを頭の中で問いかけ続けた映画だった。 でも…、もっと心揺さぶられていいはずの映画なのに、そうでもなく観終えてしまったのは、 なぜなんだろう。 ここから<ネタバレ注意です!>です。 145分くらいまでは、この世界を受け入れて、こういう物語なんだと納得して観ていたんだけど。 納得して観ていたのはエンドロールの直前までだった。 画面に実在のクリストファーの写真が出て、その顔や表情に釘付けになったとたん、 145分近く観てきた映画がどこか違うんじゃないかという気がしてきた。 実際のクリストファーは、ピュアで、繊細な文学青年という感じで、どこか痛々しい優しい表情をカメラに向けていた。 ああ、この人の物語だというのなら何もかもすべて解るような気がする。 そんな気がした。 一瞬の写真で解るのかといわれるかもしれないけど、そんな気がしちゃったのだ。 実在のクリストファーならすべて解ると同時に、エミール・ハーシュという俳優の演じたクリストファーはクリスファーじゃない、という思いに強くとらわれてしまった。 餓死してしまったクリストファーを演じるために18kgも減量して熱演してたというのに^^; エミール・ハーシュという俳優さんは、レオナルド・ディカプリオタイプというか、 ハリウッドスターの匂いのする青年だと思う。 普通に新車だって乗りそうだし、普通にイカしたガールフレンドとも付き合いそうだし、 文化系というよりは、どちらかというと体育会系の青年の役が似合いそうだ。 文章を綴るシーンでは眼鏡をかけていたけど、 今思うと、なんだか眼鏡が似合ってなかったような… インテリの文学青年が板についてないのだ^^; とにかく、いかにも俗世界に所属してる青年で、親の敷いたレールの上の暮らしを捨てたのも、 エミール・ハ-シュが演じると、怒りと反抗心からという感じがする。 負けん気の強そうな、肉食系男子というか。 何もかも"無"にして精神世界を彷徨いたかった青年という感じじゃない。 きっと、実在のクリストファーの写真を見なければ、 エミール・ハーシュにはちょっと違和感を抱くくらいだったと思うんですけどね。 見ちゃったから、もうダメ^^; ぶっちゃけ、写真の実在のクリストファーはひと目で好きになったけど、 エミール・ハーシュは全然といっていいほど好みのタイプじゃないし。 ひと目で好きになったことで、 映画を観ていて疑問に思っていたことが、解ったような気がしてきた。 疑問だったことというのは、クリストファーが行く先々で、好感を持って迎えられ、親交を深めていたこと。 映画は脚色した内容だろうけど、原作はルポライターが書いたノンフィクションで、実在のクリストファーと接した人物を取材しているので、少なくとも出会った人々にはかなりの好意を持たれていたのは間違いないだろう。 どうして彼は、こんなに好かれ、愛されるんだろうって映画を観ていて不思議に思っていたけれど。 写真のクリストファーのあの笑顔なら、社会のかたすみで生きるような人には無条件で好かれただろう。 でも、ひととひとの心の触れ合いに無縁だったわけでもなく、 決して、人間不信から孤独に陥っていたわけではない青年が、 誰をも遠ざけて、あんな荒野の真ん中で究極の孤独を味わなければ、 "Happiness is only real when shared"という思いに至ることができなかったのだから、 その心情は複雑でよく解らないとしかいいようがない。 クリストファーを愛したヒッピーの女性が手編みの帽子をプレゼントして、彼はその帽子をアラスカの荒野で川を渡る目印に使っていたけど、あれは実際あったことなんだろうか。 荒野での暮しに限界を感じて帰ろうとしたのに、川が増水して渡れないと知った場面は、 この後のクリストファーの運命が予想されて悲壮感ただようものだった。 ここを渡れば、優しかったみんなのいる世界に帰れるのに。 その痛切な思いを帽子が象徴してるようだった。 自然への畏怖が足りなかったのか、知識や経験が乏しくて、クリストファーは死んでしまったけど、 生きて帰るつもりだったことは、映画にもちゃんと描かれていた。 エミール・ハーシュのクリストファーにはあまり思い入れることができずに観ていた自分にも、 クリストファーの残した最後の言葉には、ちょっと感動した。 "I HAVE HAD A HAPPY LIFE AND THANK THE LORD GOOD BYE AND MAY GOD BLESS ALL!" 神を信じないと言ってたクリストファーは、アラスカの地でどんな彼の"神"をみつけたんだろう? そこらへんは、映画では描かれてなかったね。 署名がアレグザンダー・スーパートランプではなく、 ちゃんとクリストファー・ジョンソン・マッカンドレスだったのも、 そのことによって彼の一生を肯定できるようで、よかった。 でも、"もしか僕が笑顔で腕に飛び込んだなら、見てくれるだろうか、今、僕が見てるものを"っていうモノローグは、原作にあったのかなあ?無いんじゃない? 親への不信感やトラウマから旅に出た息子が、息をひきとる前には親を思うなんて、 いかにも解りやすい図式で、鼻白みました^^; そこらへんは、ショーン・ペンといえども、商業映画の限界? 親との共感や心の触れ合いを、元々求めていた人じゃなかったという気がするけどな。 それにしても、なぜ、クリストファーは北を目指したんだろう? どうして、アラスカでなくてはいけなかったんだろう? ソローの著した「森の生活」に憧れたんなら、 もうちょっと自給自足しやすい場所を選べばよかったのに^^; あのアラスカの荒野の穢れの無さ、 身も心も純粋になりそうな清浄な空気を求めていたんだろうか? 「無」の世界は美しいけど、生きていくにはあまりに厳しすぎた。 「イントゥ・ザ・ワイルド」公式HP my評価 :★★★★ (★五つで満点、☆は★の半分) ▲
by do-little
| 2009-03-06 02:44
| ■イントゥ・ザ・ワイルド
たとえ、冒頭から喉元をカミソリで切り裂いて傷口ぱっくりのシーンでも、
水死体がばっちり映っても、画面の前から逃げ出さずに観続けていたい。 そう思わせるほど、魅せられてしまった映画です。 ロシアン・マフィア"法の泥棒"の男たちのあまりにもダークな物語。 匂い立つような映像に、まず魅了され、 ヴィゴ・モーテンセン演じるニコライの何ともいえない男の魅力に引き込まれてしまいました。 ここから<ネタバレ注意!>です。 グロい映画も、痛い映画も、絶対に観ないほうなんです^^; ジョニデの「スウィニートッド」だって、観てないし。 作品賞とったから観なくちゃと思った「ノーカントリー」からも逃げ出してしまったひとなんですが。 「イースタン・プロミス」は特別でした。 もちろん、残酷なシーンは両手で顔を覆って、指の間からちらっとだけ観るようにしてましたけど。 (死体の指を処理する場面だけはさすがに、しっかり目をつぶってました) もう、冒頭から、映像にシビレっぱなしでしたね~ ずしんとくる映像っていうか、暗いトーンに覆われたローキーな画面。 これだけでも、これから描かれるのは、こんな黒々としたイメージの生き様なんだろうなって、 どきどきしてくる画面です。 闇に黒く縁取られた街はいったいどこなんだろうと思って観ていたら、 ロンドンだったんですね~ その暗い場所から、一転、明るい場所へ。 場面が、ロシアン・レストラン(実はロシアン・マフィアの経営する店)になると、 これまた、映像が素晴らしいんです! いや~、このレストランの妖艶だったこと! わあって、魅入っちゃいましたもんね。 豪奢な装飾にエメラルドグリーンが使われているのが、ほんとに綺麗でした。 後半、レストランで老女のバースデイパーティが行われてる場面があるのですが、 白いケーキに、ショッキングピンクの花びらがあしらわれるのを観たときは、もうあまりに美しくて 泣きたいくらい感激してしまいました。 そういった美しいものと、惨たらしいものが隣り合わせになった映像。 ああ、さすがR-18指定、大人の世界だわって、思ってしまうんですよね^^ 大人の世界だなあ、という印象は、それぞれの役柄の人物造型にも強く感じました。 まず、ヴィゴ・モーテンセン演じる、マフィアの運転手ニコライ。 オールバックにアルマーニのスーツという目を引く外見でありながら、 常に影のようにキリルに付き添う男。 口数少なく、隙なく、如才なく、常に冷静沈着。 氷のように残忍かと思えば、意外な優しさや慈悲さえも垣間見せる男。 もう、これは惚れない人はいないでしょ、ってくらいの人物で。 男だって、ニコライには惚れてしまいますよ、きっと。 映画の物語の上でも、ヴァンサン・カッセル演じるキリルはニコライに惚れちゃってるんだけど、 このキリルがまた興味深い人物でしたよ。 マフィアのボスである父親のセミオンの前では、ただただ愚かなゲイの息子で、 キレやすいくせに小心者でアル中のキリル。 ニコライに対しては、常に主として不遜な態度を取りながら、べったり依存していて、時にはすがりつくように甘えたりもする(ふたりがくっついてるシーンはドキドキしちゃいます)。 目の前で娼婦とファック(失礼)しろ!なんてニコライに命令したりするくせに、 精神的優位に立ってるのは実はニコライで、キリルはニコライにメロメロという屈折しまくりの関係なのですね。 そして、アンミューラー・スタール演じるセミオン。 ロシアンマフィアの冷酷無情のボス(イタリアのマフィアだとドンだけど、何ていうんだろう)の顔と、温厚そうなレストランのオーナーのふたつの顔を持つ男。 デキの悪い息子を嘆きながらも、息子を守るためなら、どこまでも無慈悲になれる。 穏やかな表情ですら、凄みを感じさせるという、これまた深い役柄。 もう、この3人をひたすら鑑賞するだけでも満ち足りてしまって、 正直、ナオミ・ワッツ演じるアンナと、死んだ少女、赤ん坊、残された日記をめぐるサスペンス・ドラマの部分は二の次でいいやって感じでした。 欲を言えば、ニコライは悪の側の人間であってほしかった。 悪人で、平気で残忍なことをするくせに、時に慈悲深い面をみせる そんな矛盾したキャラクターのままであってほしかったです。 ちょっとなあ~んだ、だったですよ^^; ニコライの正体が解ったときは。 話題の全裸で戦うシーンは、評判通りすごかったです^^; 裸ってことが、どんなに弱々しく無防備なことか。 もう真っ裸のところを刃物で襲われるって、それだけで自分にとってはホラーなんですけど^^; それなのに、ひるむことなく戦うニコライって、鋼のような不屈の精神の持ち主なのか。 何しろヴィゴ様はモザイク無しの全裸で戦ってるので、ちょっとだけ観たい~!(スケベですよね)という気持ちと、ひぇ~痛そうで観てられない~!という気持ちが自分自身の中でも戦ってるって感じで。結局、正視には絶えられず、ほとんど両手で目を覆ってチラ見してましたけど^^; その暴力的に怖いシーンとはまた違ってゾクリとさせられたのが、 ニコライがマフィアの一員として認められて、その印であるタトゥを彫る場面。 ロシアン・マフィアにとっては刺青が履歴書なんだそうですが、そうだとしても、強制的に入れられる刺青って永遠に消えない刻印だけに、嫌~な恐怖感を覚えてしまう。 ニコライの心臓の上あたりと両膝にロシアンマフィアの星の刺青が彫られていくシーンは、 チラ見じゃなくてガン見してましたけど、淡々としていながら怖ろしい場面でした。 それで、普段は、映画の感想でボヤいてしまうのって、映画のエンディングについて書くときが多いんですよね。 けっこう色んな映画で、"後日談までくどくど語りすぎ!少しは視聴者の想像に結末を委ねてよ!" ってな感じに文句をつけてる。 でも、この映画の場合は、逆でした。 え~、ここで唐突に終わるか!もう少し語ってよ~ってね。 ニコライを絶対的に信頼してるキリルが裏切られてることを知る時って、めちゃくちゃツボな場面だと思うのに、描いてくれないわけ~? セミオンは、すぐに逮捕されちゃって、ニコライがボスの座を奪うんだろうか? そして、ニコライはいったい最終的にどうなるの? ラストシーンの、ロシアンレスランに佇むニコライの姿が暗喩するものは何なのか?って ものすごく気になりますよね~ ひょっとして、悪の世界にズブズブと足を突っ込んだままだったりして? う~ん、もうちょっと映像でその後の物語を観てみたかった。 あそこでぶった切るとこが凝縮された話になっていいんだって、それは解ってるんですけどね^^ クローネンバーグ監督というと、どうしてもついハエ男の監督って思ってしまうんだけど、 よく考えたら、クリスファー・ウォーケンの「デッドゾーン」もそうでした。 (この映画の頃のクリストファー・ウォーケンの素敵だったこと!) グロい映画を期待してるファンはがっかりだろうけど、時には切なさたっぷりに、男優の魅力を引き出した映画も撮ることのできる監督さんなのでしょうね。 ヴィゴ・モーテンセンとは、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」でも組んでいるんですが、タイトル通り暴力シーンが半端じゃないみたいで、観てみたいけど、ちょっと腰が引けちゃってます^^; (ヴィゴの新作はぜひ見たいと思いますが) 「イースタン・プロミス」だって、本来なら残酷なシーンにびびって観てないはずの映画なんですけどね。思い切って観てみて、ほんとよかったと思います。 (観終わったときは感激しまくりで、絶対満点の星五つの作品にするつもりでしたが、しばらくすると、ちょっと物語のあちこちに疑問符のついちゃうところも多いかなって気がしてきました。例えば、アンナは赤ん坊のためとはいえ、どうしてそこまでヤバそうな事件と関わりを持つのか?とか。ロンドンの人たちは、あそこまでロシアン・マフィアに無頓着なのか?とか。叔父を危険なことに巻き込むことに普通気が付くだろう、とか。マフィアの方も、叔父だけじゃなく、アンナや母も口封じしようとするのが普通だろう、とか。そもそも、物語の発端である少女をどうしてマフィアは追わなかったの?とか。そういった疑問で映画の感激が損われることは無いんですが、一応サスペンス・ストーリーだということも考えて、満点の星五つの一段階下にしてみました。それでも、めったに付けない星で、今年の今のところの最高点ですし。観るひとを極端に選ぶ映画ですが、かなりのおすすめ作品であることには変わりません^^) 最後に、この映画についてさらに詳しく考察した目からウロコの記事を「落穂ひろい」というブログをみつけたので、下にリンクしてご紹介しておきます。 ニコライが娼婦にあげたイコンのカードや、映画で話された多彩な言語についての情報も書かれていましたし、時間軸についての考察はなるほど!って感じで。 色んな視点から映画を語った文章は(コメント欄もすごい)、へえ~と思うことの連続でしたよ^^ ヴィゴ・モーテンセンがいかに工夫して役づくりをしていたかを知ることもできて、 ますますファンになってしまいました^^ 特にラストシーンについては面白い解釈が紹介されているので、 ぜひぜひ参考になさってみてください。 →「落穂ひろい "イースタン・プロミス"に関するどうでもいい考察」 「イースタン・プロミス」公式HP my評価 :★★★★☆ (★五つで満点、☆は★の半分) ▲
by do-little
| 2009-02-25 08:57
| ■イースタン・プロミス
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